明治天皇が創建した神社「鎌倉宮」に行ってみよう!

こんにちは!I Love EMの高橋万里子です。今日は平成最期の朝市ですよ。場所は鎌倉宮!もうすぐ、126代天皇即位、令和の元号に変わりますが、鎌倉宮に祭られているのは、鎌倉幕府が滅亡し、天皇親政が復活した(建武の新政)時代に活躍した、第96代の後醍醐天皇の第一皇子、護良親王なんです。

「鎌倉宮」は、 第122代 明治天皇の命にて造営された神社なんですよ。 今日は、 護良親王 と鎌倉宮にまつわるお話をしてみますね!

◎大塔宮(おおとうのみや)

護良親王(もりながしんのう)[1308~1335]後醍醐天皇の第1皇子。名は「もりよし」とも。母は北畠師親の女親子。北畠親房とはいとこ関係。当初,延暦寺大塔に入室,このため大塔宮(おおとうのみや)と称す。法名尊雲。

護良親王は、1327年(嘉暦2)、17歳の若さで、天台宗門の最高峰である、 天台座主(ざす)となります。それは、父帝の討幕計画の一環として山門の勢力を掌握するためなのでした。

護良親王は、父帝の隠岐配流中討幕運動の中心として鎌倉幕府軍と戦い、幕府倒幕とに貢献し、建武の新政で征夷大将軍に任じられましたが、 父・後醍醐天皇と不和になって足利尊氏と反目、鎌倉の東光寺に幽閉され、27歳の若さで亡くなりました。

” 武家(尊氏)よりも君(父天皇)のうらめしく渡らせ給ふ ”

その後、後醍醐天皇は 吉野に遷幸して皇統の正統性を主張したため、北朝(京)と南朝(吉野)にそれぞれ天皇が存在する「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」を迎えることとなります。足利尊氏は 、持明院統の光明天皇を立てて、武家政府 (室町幕府) を開きます。

ちなみに、鎌倉幕府の滅亡までの151年間の間に何度年号が変わったのか調べたところ、55回も変わっていました。朝廷の歴史も、激動なものだったのが伺えますね。

1339年に後醍醐天皇が亡くなった吉野には、後醍醐天皇陵があります。 病に伏せった後醍醐天皇は、下記のような歌を詠みました。

“身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん”

最後まで、都を憧れつつ、吉野で崩御した、後醍醐天皇の京都への思いに報いるよう、天皇家の墓陵としては、日本で唯一「北向き」(京の方角)に埋葬されており「北面の御陵」とも呼ばれます。

鎌倉幕府が滅んで、日本に2つの王朝が建てられた南北朝時代の話です。南北朝とあったなかで南朝の天皇が正統とされているのは、 明治時代に 第122代の明治天皇によって「南朝を正統とする」という宣言があったからです。三種の神器を保有していたのが南朝であったからなどさまざま理由が考えられますが、はっきりとした理由は現在もわかっていません。

794年の平安京遷都以来、ずっと京都にあった天皇の御所ですが、 1868年王政復古の大号令をもって新政府をたて、明治天皇が東京へと居住を移し、それから現在まで天皇の御所は東京になっています。

明治天皇が即位後、天皇の諡号と元号が一致し、天皇が代替わりすると元号が変わるという、今の天皇制の一世一元になりました。

鎌倉宮(大塔の宮)朝市
鎌倉宮の午後市