鎌倉宮って、唯一、天皇が創建された神社なんですよ!

こんにちは!イーエムジャパンの高橋です。今日は令和になっての初めての鎌倉宮午後市が開催されますよ! 先日の5月1日に即位された新天皇は神武天皇から、数えて126代目。なんでも、今上天皇の高祖父である、122代目の明治天皇が、この鎌倉宮を建てられたんですよ。

明治維新の「王政復古」 で天皇制が復活する際に、 国家のために特別な功労があった人物「後醍醐天皇の皇子である護良親王」を祀る神社として創建された神社なんですよ。天皇家由来の神社として、令和元年に訪れてみてはいかがですか?

明治2年(1869年)2月、明治天皇は建武中興に尽し、非業の最期を遂げられた護良親王の遺志を高く称え、東光寺跡に神社造営の勅命を発し、宮号を「鎌倉宮かまくらぐう」と名づけられました。3月には鶴岡八幡宮神社らの手によって地鎮祭が執り行われ、造営開始から48日後の4月10日には社殿が完成したそうです。

上の写真は、鎌倉宮が建てられてる頃の鶴岡八幡、当時、鎌倉時代~徳川幕府までの武家社会の間は、鶴岡八幡宮寺というお寺でした。 明治3年の廃仏毀釈では大塔を始め主だった仏堂は全てなくなり、現在の鶴岡八幡宮となりました。

4年後の明治6年(1873年)4月に明治天皇の鎌倉行幸が行われ、鎌倉宮への参詣が実現することになります。当時は、交通機関も道路も整備されておらず、3泊4日もかけて、雨の中、大変だったそうです。

明治天皇は4月14日の早朝、新橋から神奈川まで電車に乗られたそうです。そこから、馬車に乗り保土ヶ谷を経て戸塚で御昼。戸塚から、小袋谷村で演習を天覧し、午後1時30分に軍楽隊の奏楽の中、鎌倉の行在所となった鶴岡八幡宮祠官宅に到着して初日の行程を終了。まだ、1日目で鎌倉宮に到着していないのです。

翌日15日は大荒れの天候でしたが、天皇は午前9時に行在所を出門、鶴岡八幡宮前における演習参加舞台の点検式・分列式に臨み、終わって八幡宮裏の大臣山に登って教導団歩兵第一大隊・同附属歩兵五番大隊の攻守太閤演習を閲し八幡宮へ参拝。午後は軍楽隊の奏楽を聞き、八幡宮の宝物などを閲覧しています。当時は徳川幕府の残党勢力と明治新政府の力関係も複雑だったんでしょうね。

明治天皇は、やっと、3日目に 鎌倉宮に行幸がかないました。16日は雨は止んでいたものの風は引き続き強く、午前8時30分に鎌倉宮を参拝、お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となってるそうです。
後10時10分には騎馬で江ノ島へ赴き、地元漁民によるあわび採りを親覧。午後2時過ぎに藤沢に到着、行在所の清浄光寺泊、17日に東京に戻っています。

これにより、明治時代から、 護良親王の命日にちなんで、八月二十日に例祭が執り行われています。

境内には、親王の身代りとなって吉野に自刃した村上義光(よしてる)を祀(まつ)る村上社があります。 村上義光は、1333年の吉野城落城の際に、親王の鎧をつけて身代わりになり、壮絶な最期を遂げた忠臣です。そのおかげで、 護良親王 は、南に向かって落ち延びたそうです。

なで身代わり侍(木像)

鎌倉宮では、身代わりとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ「撫で身代わり」として入魂したそうです。この木像は、身代わり侍といって、身代わりになってもらいたい箇所(痛みや病など)を撫でるといいそうです。

南方社

南御方は持明院中納言藤原保藤の息女にて、 護良親王が鎌倉に幽閉されたときに随行し、常に身の回りの御世話をなされ、 御心を慰められた方です。親王のご最期にあたっては、理知光寺の長老と 共に丁重に弔いをされた後、上洛し後醍醐天皇へ親王のご最期の仔細を報告されたとのことです。

鎌倉宮のご神木

厄割り皿、100円で小さなお皿を買って岩にぶつけて割るもの(厄払い)です。

辛いこと、困ったことがあったら、厄払いして元気になりましょう。

拝殿に安置された獅子頭が有名。 獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」と言われているそうです。

獅子頭は、お土産で買えるものがあり、とても可愛いいです。

鎌倉宮の午後市

鎌倉宮(大塔の宮)朝市

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