EM誕生物語<その1>・・・失敗と偶然の奇跡
EMの開発者である比嘉照夫(ひがてるお)氏は、1941年、太平洋戦争が開戦した頃に沖縄で誕生。
少年時代は戦後の食糧難で、大家族の食べ物を確保するため、積極的に農作業を手伝ってきました。
この少年時代の経験が、比嘉氏を自然と「農業」に向かわせることになります。
「農は国の基なるぞ」という信念のもと、農業の発展・食糧増産を目指して農業技術者・指導者を志し、
九州大学へ進みます。
戦後の日本は、教育、文化、農業、工業もすべて、アメリカの影響力の元にありました。
日本古来の有機農業から、アメリカ式の化学肥料や農薬などの大規模農業資材が導入され、
変わっていきます。
比嘉青年も、農薬や化学肥料、ホルモン剤、微生物資材など、あらゆるものを試しながら
ミカンの品質向上を目指して、日々研究に明け暮れていました。
そして、研究を続けているうちに、彼自身の体調がどんどん悪くなり、
気づけば農薬中毒になっていたのでした。
当時、日本は高度成長期のまっさかり。欧米においつけ、おいこせで、
環境や健康よりも産業が重視される時代でした。
そして、1974年秋、有吉佐和子氏の農薬の危険性に取り組んだ「複合汚染」が
朝日新聞に連載し始めるや、大きな反響を呼び、なにかが変わりはじめていました。
「農は国の基なるぞ」の信念のもと、研究を重ねてきたのに、国どころか、地球温暖化や、
酸性雨、環境ホルモン、農薬が世界中の、地球上の大きな問題になっていたのです。
ショックを受けた、比嘉照夫氏は、考えを考えを一転し、
農薬や化学肥料に頼らない農業をしようと、微生物の研究に着手したのでした。
星の数ほどもある微生物の中から、「口に入れても安全」「環境を汚さない」などの
安全条件をクリアした微生物を選別し、研究を進めましたが、長年の農業分野から、
未知の微生物分野への方向転換だけに、なかなか研究が上手く進まない日々が続きます。
1980年、琉球大学農学部の助教授だった比嘉教授は、123種類の微生物を密封したまま、
(微生物を密封容器に閉じ込めることは常識外れとされてた。)
数日間、放置して出かけてしまいます。
戻ると、容器は膨張、中はPH3.5をすでに超えていました。
微生物学の常識では、PH4近くになると、微生物は死滅すると考えられていたのです。
しかし、81種類、生きていたのです。
そして、出かける前に、微生物(色々混ざったもの)を撒いた草むらの草が1箇所だけ、
異常に生長していたのです。
微生物の専門家でなかったからこその、失敗と偶然の発見でした。
これが、EMのはじまりです。
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